ふみあそび ~ 史遊び ~

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加藤彦十郎の墓

大堂庵墓地の加藤家墓地に、加藤彦十郎の墓がありました。(現在は墓じまいされました)f:id:humi-asobi:20240331094148j:image

(2016.5.5撮影)

加藤彦十郎は、加藤雄吉の父で、吉武氏から養子となり、加藤家を継ぎました。長州征伐、戊辰戦争へは官軍として従軍し、典禄として6石を賜い、その後は常備隊の編制や訓練を行っていましたが、西南戦争の際は賊軍に参加し禁固3年、明治20年串木野士族で芹ヶ野金山を経営成功させました。明治34年中風にかかり、それ以来療養生活をおくり、明治43年8月26日66歳で没しました。

 

二男加藤雄吉と東京時代交友のあった森鴎外田山花袋柳田国男、国男の実兄井上通泰らに贈られた、療養中の彦十郎の還暦のを祝う和歌が残されている。

 

加藤彦十郎之墓

先考、諱鎌潔、號梨堂、通称彦十郎、世本村人、本姓吉武氏、通称百二、良昌次子、出嗣加藤氏、實為孫大夫、諱鎌哲、後元治元年長藩士犯禁闕、先考時屬警衞隊與衆撃退之戊辰役從官軍、歴戦于各地、當論功行賞、賜典禄六石、後從事本村常備隊之編制及訓練、丁丑役從軍賊軍為小隊長、及亂平、禁錮凡三年、明治二十年相地芹ケ野、創礦業本村士族経營礦業、實以先考為嗃矢、三十四年初秋羅((ママ))中風、爾来閑卧養老、四十三年夏疸發背、竟以八月二十六日歿、享年六十六、今建石記行、事擧其概略傳不朽、

 

   明治四十三年八月二十六日 歿

         行年六十六

大久保公先世記念碑

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 川上小学校校庭に「大久保公先世記念碑」がある。これは、大正10年に大久保利通の三男利武が川上の大久保家祖先を墓参したことを契機に建立が計画された。ちなみに大久保家の系図明治22年に起こった大久保家の火災により失われ、現在はこの川上の墓地の墓碑銘によって補われているという。また、この大正10年の大久保利武来訪時に、川上に居住していた大久保家の分家で嘉永元年(1848)大久保利通18才の時の日記が発見されている。

 記念碑正面の揮毫は松方正義である。松方正義(1835―1924)は、もと薩摩藩士の明治-大正時代の政治家である。明治政府では大久保利通の推挙で日田県知事になる。パリ万国博の事務局副総裁となり、明治11年渡欧。14年以降大蔵卿、蔵相として紙幣整理、増税の松方財政を推進。また日本銀行を設立し、金本位制を実施した。その後内閣総理大臣・枢密顧問官・内大臣を歴任し、後年は元老として力をふるった。

 この碑文の作者西村時彦(ときつね)は、西村天囚の名で知られる、1865年9月25日西之表出身のジャーナリストで、朝日新聞記者として活躍、『天声人語』の名付け親でもある。また、朝日新聞退社後は大正9年1920年)6月より、島津家臨時編輯所編纂長をつとめている。揮毫の梅園良正(号方竹)は昭和10年建立の鹿児島県立甲南高等学校内に建つ「三方限出身名士顕彰碑」などの揮毫も務めた書家である。

 

(記念碑)

「 贈右大臣大久保公先世記念碑 」

(裏側)

贈右大臣大久保公先世記念碑   正二位大勲位公爵松方正義表題

日置郡西市来村の川上は山間の僻邑なるが明治維新の元勲贈右大臣大久保甲東公の

祖先が貞享宝暦の比ほひ中宿として此に仮住せられしことあり、其の舊宅及ひ墳墓の

今尚厳存せるは尊重すへき史蹟にして邑人の今昔に俯仰して感慨に禁へさるや宜な

相伝ふ大久保氏の先は畠山重忠の二男為重より出つ 其の子孫世々島津氏に事へ

徳川幕府の末に至れるか公の父次右衛門利世君は誠忠の士にして郷党の推重する

所たりしに嘉永年間同志者と共に力を照国公■護に効し遂に藩譴を蒙りて喜界島に

流謫せられたりき公加夙に大節を持して身を国事に委ね遂に回天の鴻業を翼賛せら

れしは誠に偶然に非さるなり、公は立朝の後先世の舊宅を邑人石神孫太郎に与へて先

墓を守らしめられしより荒廃せさるを得て今日に至れり、亦孝と謂ふへし嗚呼此の地

僻小といへとも山間に居住せし武士の子孫に公の如き者を出せしは以て世に誇り、後

に垂るゝに足れり、郷党の子弟は其の舊宅を過き先墓を拝する毎に公の先世の遺風を

追慕之し公の人格の崇高と功徳の偉大さを景仰して観感興起せさる可らす、因て西市来

村の有志者胥謀り茲に碑石を立てゝ之を不朽に傳へんとし、文を予に請ふ、予は其の世

道に関係あるを喜ひ其の由来を記して以て後人に告く

大正十一年十一月        文学博士西村時彦撰 梅園良正書

 

(裏側台座部分)

大正12年1月28日除幕式挙行

(『文化いちき』26 2018.3)

 

大堂庵墓地

いちき串木野市にある串木野インターのすぐ近くに、地元では大堂庵墓地と呼ばれる墓地があります。

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大堂庵という地名は、江戸時代このあたりにあった良福寺(島津家久が蓬福寺として再興、後に良福寺と寺号を改める)、又は再興される前にあったといわれる良福寺にまつわる地名だと考えられる。

 

串木野氏の墓(いちき串木野市指定文化財)をはじめ、肝付、長谷場家、入来家、長家など、藩政時代の串木野郷の郷士の家々の墓地が並んでいます。

 

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加藤雄吉の墓

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串木野市麓の大堂庵墓地に加藤家の墓地があり、そこに加藤雄吉親子の墓がありました。後継がないということで墓じまいされましたが、その後、加藤雄吉の功績をたたえるべく、記念碑が建てられ、墓の竿石が加藤家の墓地跡に戻されました。

竿石の「加藤雄吉之墓」の文字は森鴎外の揮毫であると加藤家には伝わり、側面には加藤雄吉の墓誌が刻まれています。

加藤雄吉の墓 2016.5.5撮影

(正面)

加藤雄吉之墓

(側面)

君諱雄吉、號尾花、加藤氏、考曰彦十郎、君其第二氏也、家世西薩串木野人、君幼而頴悟、年甫十六、學東京法學院、非其志不終業而還、性酷愛文学、獨力研鑽、造詣不浅、尤精于考證、又嗜國風、後再上京、與文壇諸名士交遊、一代耆宿、皆愛重焉、明治三十三年歸郷、未幾住鹿児島、爲明治學院教頭、後執筆某新聞、偶患膈脰、歸郷養病于令兄吉彦君之邸数月、竟不起、實大正七年一月十 日也、享年四十有六、葬先塋、無嗣子、配平野氏、有故大歸、君著書頗多、令兄深悲其抱志而蚤世、欲建碑永其傳矚余以碑文、顧君交遊満海内、撰銘之任、不乏其人、余浅學固辞不聴、因思與君同郷相知三十餘年、誼似兄弟、且頗詳悉其生平、亦不可以不文辞也、乃援筆叙其行歴、系銘曰

 

天生奇才 西薩之濱 文學奮起 著書等身

雖壽則短 其志則伸 建碑刻銘 豈侒郷人

          栗山直次郎撰

 

   大正七年一月十 日亡

      行年四十有六

(『くしきの』33号 2019 )

墓誌の意味をざっくり訳すと、

諱は雄吉、号は尾花、加藤氏。彦十郎の第2子。西薩の串木野の人。幼いころから賢く、16歳で東京法学院に入学するが中退帰郷、文学を愛し、独学で研さんし、文学への造詣が深かった。考証に詳しく、国風をたしなんだ。後に再び上京し、文壇の名士と交遊したが、老大家の愛が重かったのだろうか、明治33年帰郷、しばらくして鹿児島に住み、明治学院の教頭となる、その後某新聞に執筆する。食道がんを患い、帰郷し兄吉彦の家で数か月の闘病の末、大正7年1月亡くなった。享年46歳。先祖の墓地に葬られた。子はなく。配偶者は平野氏。故あって離縁した。雄吉は著作が多く、兄は志半ばでの早世を悲しみ、その業績を長く残そうと碑文を建てようとしたが、碑文を描く人選が難航し、私も浅学なので固辞したが聞き入れてもらえなかった。同郷で30年以上兄弟のように親しい付き合い、その生涯をよく知っているので、文章にすることができないので、詩文によって功績を述べることとする。

こんな感じでしょうか?漢文の訳は....よくわかりません。

 

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首無し観音

長崎鼻の北側、小瀬の船溜まりから長崎鼻へ向かう道路脇の松林に、十数体の壊れた仏像が並んでいます。

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串木野郷土史』(1982刊)によると、もとは11体だったようですが、現在は15体の石造物と陶製の観音像などがありました。

江戸時代、恵比須が丘に慈眼山妙智寺という禅宗のお寺があり、明治2年廃仏毀釈の際、地中に埋められましたが、昭和7年その場所に浄宝寺を建てる際掘り起し、恵比須が丘の墓地に安置されていたそうです。昭和32年木原墓地が整備され墓地が移転する際、魚礁にするため小瀬港脇へ運ばれましたが、その頃、昭和31年の台風で壊れた護岸工事をしていた方がこの場所に祀ったそうです。墓石の一部は恵比須が丘から海側の階段にも再利用されています。

 

並ぶ石造物をみると、仏像、庚申塔(てむつどん)、卵塔(僧侶の墓)など様々です。

 

 

ガウンガウン祭 2024-深田神社の春祭りに伴う芸能-

深田神社

2024年3月10日、深田神社の春祭り(通称:ガウンガウン祭)が開催された。

かつてはオコン川上流の深田地区にあった深田神社が江戸時代洪水で流され、神宝などが流れ着いた野元に神社を移したので、現在は野元地区に深田神社が建っているそう…

昔は産土祭(うぶすなまつり)と呼んでいたけど、戦後いつの間にかガウンガウン祭と呼ばれるようになったそうです。

14時から神事があり、神事が終わると郷土芸能のはじまりです。

この春祭りは、打植祭(うちうえさい)とも呼ばれるお祭りで、神社の境内を田に見たて、田起こしから田植えまでをユーモラスな寸劇することで豊作を祈願する行事で、このような行事を予祝行事といいます。いちき串木野市薩摩川内市では、太郎太郎祭または太郎次郎祭と呼ばれる同様の豊作を祈願する春祭りが現在でもおこなわれています。

ここ深田神社のお祭りには、テチョ(父親役)、太郎・次郎(息子)、牛が登場します。最近は深田神社を祀る3つの地区が交代で運営しているんですが、平江地区が担当の年だけ、カカ(母親役)が登場します。今年は平江地区担当でした。

テチョ、太郎、次郎の足に、子供たちがクワの形の枝をひっかけ、テチョたちが転ぶと豊作になるといわれているので、テチョ・太郎・次郎は何度も子どもたちに転ばされます。演者さんは大変そう。。。

まさかのババたち登場。

お茶の準備をして、テチョとカカが即興劇を繰り広げる間、ババたちは踊ってました。

この後牛が登場し、太郎と次郎は子どもたちに転ばされながら、牛を探します。

無事に捕まえた牛に鋤をつけて田を耕します。

最後は水口を閉じて、田植えをして終了となるはずが…今年は水口在りませんでした。あれれ?

 

郷土芸能の後は餅まき。おとなも童心に戻って楽しんでました。

「山田吉太郎氏之訟徳碑」と「船木久太郎氏之訟徳碑」

いちき串木野市西浜町の恵比須神社の境内に建つ

「山田吉太郎氏の訟徳碑」と「船木久太郎氏之訟徳碑」と略歴

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「山田吉太郎氏

 船木久太郎氏 略歴

 山田氏は長崎市材木町の人で、家業の山田屋商店は機船底曳網漁業とトロール漁業鉄工業とを営む。船木氏は下関市に船喜商店を設立し、鮮魚・魚介・肥料・塩干魚の問屋と貿易商を営む。一八七九年明治十二年以来当市遠洋漁業は朝鮮近海でさば漁業やかじき延縄漁業に従事した。当時山田・船木両氏は漁獲物の海上輸送と漁価の団体取引きに協力し、また当市に山田屋組合船喜組合を設立して、出漁資金や動力船建造資金の融資を惜しまなかった。当市漁民の経済的地位を向上させ、遠洋漁業の声価を天下に高めた功績の一端は実に両氏の負うものである。 一九六三年五月吉日 記 」