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加藤雄吉の墓

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串木野市麓の大堂庵墓地に加藤家の墓地があり、そこに加藤雄吉親子の墓がありました。後継がないということで墓じまいされましたが、その後、加藤雄吉の功績をたたえるべく、記念碑が建てられ、墓の竿石が加藤家の墓地跡に戻されました。

竿石の「加藤雄吉之墓」の文字は森鴎外の揮毫であると加藤家には伝わり、側面には加藤雄吉の墓誌が刻まれています。

加藤雄吉の墓 2016.5.5撮影

(正面)

加藤雄吉之墓

(側面)

君諱雄吉、號尾花、加藤氏、考曰彦十郎、君其第二氏也、家世西薩串木野人、君幼而頴悟、年甫十六、學東京法學院、非其志不終業而還、性酷愛文学、獨力研鑽、造詣不浅、尤精于考證、又嗜國風、後再上京、與文壇諸名士交遊、一代耆宿、皆愛重焉、明治三十三年歸郷、未幾住鹿児島、爲明治學院教頭、後執筆某新聞、偶患膈脰、歸郷養病于令兄吉彦君之邸数月、竟不起、實大正七年一月十 日也、享年四十有六、葬先塋、無嗣子、配平野氏、有故大歸、君著書頗多、令兄深悲其抱志而蚤世、欲建碑永其傳矚余以碑文、顧君交遊満海内、撰銘之任、不乏其人、余浅學固辞不聴、因思與君同郷相知三十餘年、誼似兄弟、且頗詳悉其生平、亦不可以不文辞也、乃援筆叙其行歴、系銘曰

 

天生奇才 西薩之濱 文學奮起 著書等身

雖壽則短 其志則伸 建碑刻銘 豈侒郷人

          栗山直次郎撰

 

   大正七年一月十 日亡

      行年四十有六

(『くしきの』33号 2019 )

墓誌の意味をざっくり訳すと、

諱は雄吉、号は尾花、加藤氏。彦十郎の第2子。西薩の串木野の人。幼いころから賢く、16歳で東京法学院に入学するが中退帰郷、文学を愛し、独学で研さんし、文学への造詣が深かった。考証に詳しく、国風をたしなんだ。後に再び上京し、文壇の名士と交遊したが、老大家の愛が重かったのだろうか、明治33年帰郷、しばらくして鹿児島に住み、明治学院の教頭となる、その後某新聞に執筆する。食道がんを患い、帰郷し兄吉彦の家で数か月の闘病の末、大正7年1月亡くなった。享年46歳。先祖の墓地に葬られた。子はなく。配偶者は平野氏。故あって離縁した。雄吉は著作が多く、兄は志半ばでの早世を悲しみ、その業績を長く残そうと碑文を建てようとしたが、碑文を描く人選が難航し、私も浅学なので固辞したが聞き入れてもらえなかった。同郷で30年以上兄弟のように親しい付き合い、その生涯をよく知っているので、文章にすることができないので、詩文によって功績を述べることとする。

こんな感じでしょうか?漢文の訳は....よくわかりません。

 

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