ふみあそび ~ 史遊び ~

地域の歴史を楽しもう

大久保公先世記念碑

f:id:humi-asobi:20240402172455j:image

 川上小学校校庭に「大久保公先世記念碑」がある。これは、大正10年に大久保利通の三男利武が川上の大久保家祖先を墓参したことを契機に建立が計画された。ちなみに大久保家の系図明治22年に起こった大久保家の火災により失われ、現在はこの川上の墓地の墓碑銘によって補われているという。また、この大正10年の大久保利武来訪時に、川上に居住していた大久保家の分家で嘉永元年(1848)大久保利通18才の時の日記が発見されている。

 記念碑正面の揮毫は松方正義である。松方正義(1835―1924)は、もと薩摩藩士の明治-大正時代の政治家である。明治政府では大久保利通の推挙で日田県知事になる。パリ万国博の事務局副総裁となり、明治11年渡欧。14年以降大蔵卿、蔵相として紙幣整理、増税の松方財政を推進。また日本銀行を設立し、金本位制を実施した。その後内閣総理大臣・枢密顧問官・内大臣を歴任し、後年は元老として力をふるった。

 この碑文の作者西村時彦(ときつね)は、西村天囚の名で知られる、1865年9月25日西之表出身のジャーナリストで、朝日新聞記者として活躍、『天声人語』の名付け親でもある。また、朝日新聞退社後は大正9年1920年)6月より、島津家臨時編輯所編纂長をつとめている。揮毫の梅園良正(号方竹)は昭和10年建立の鹿児島県立甲南高等学校内に建つ「三方限出身名士顕彰碑」などの揮毫も務めた書家である。

 

(記念碑)

「 贈右大臣大久保公先世記念碑 」

(裏側)

贈右大臣大久保公先世記念碑   正二位大勲位公爵松方正義表題

日置郡西市来村の川上は山間の僻邑なるが明治維新の元勲贈右大臣大久保甲東公の

祖先が貞享宝暦の比ほひ中宿として此に仮住せられしことあり、其の舊宅及ひ墳墓の

今尚厳存せるは尊重すへき史蹟にして邑人の今昔に俯仰して感慨に禁へさるや宜な

相伝ふ大久保氏の先は畠山重忠の二男為重より出つ 其の子孫世々島津氏に事へ

徳川幕府の末に至れるか公の父次右衛門利世君は誠忠の士にして郷党の推重する

所たりしに嘉永年間同志者と共に力を照国公■護に効し遂に藩譴を蒙りて喜界島に

流謫せられたりき公加夙に大節を持して身を国事に委ね遂に回天の鴻業を翼賛せら

れしは誠に偶然に非さるなり、公は立朝の後先世の舊宅を邑人石神孫太郎に与へて先

墓を守らしめられしより荒廃せさるを得て今日に至れり、亦孝と謂ふへし嗚呼此の地

僻小といへとも山間に居住せし武士の子孫に公の如き者を出せしは以て世に誇り、後

に垂るゝに足れり、郷党の子弟は其の舊宅を過き先墓を拝する毎に公の先世の遺風を

追慕之し公の人格の崇高と功徳の偉大さを景仰して観感興起せさる可らす、因て西市来

村の有志者胥謀り茲に碑石を立てゝ之を不朽に傳へんとし、文を予に請ふ、予は其の世

道に関係あるを喜ひ其の由来を記して以て後人に告く

大正十一年十一月        文学博士西村時彦撰 梅園良正書

 

(裏側台座部分)

大正12年1月28日除幕式挙行

(『文化いちき』26 2018.3)